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「ゴジラ」を支えた特撮美術 特撮映画美術監督 井上泰幸(いのうえ・やすゆき)

特撮映画美術監督 井上泰幸さん  
大正11年11月26日 小野村(現古賀市薦野)生まれ。上京後、出入りしていた東宝の撮影所で、製図と造型の類まれない特殊技術を見込まれ、美術の仕事を手伝うことに。
昭和41年に特殊技術課の美術監督になった後は、「ゴジラ×ヘドラ」、「日本沈没」などの多数の作品に携わる。平成24年2月19日に心不全のため死去。享年89歳。
町内で4人しかいなかった旧制中学合格の記念写真。左から2番目
▲町内で4人しかいなかった旧制中学、農学校、商業学校合格の記念写真。左から2番目

古賀での少年時代
小野村(現在の古賀市薦野)に8人兄弟の7人目として生まれた泰幸少年は、父親の死に伴い、席内村(現在の古賀市天神付近)に居を移します。泳ぎが得意なわんぱく少年で、子どもの頃はよく友だちと、家のすぐそばにあった古賀の浜で遊んでいたそうです。ある日、足を大けがしていたにも関わらず、どうしても友だちと遊びたかった泰幸少年は、松葉杖をついたまま松林に遊びに行き、後から親に大目玉を食らったとか。

そんな泰幸少年も席内尋常小学校を卒業する頃には、町内で4人しかいない旧制中学、農学校、商業学校への進学者になるなど、メキメキと頭角をあらわしていきます。中学卒業後、高千穂製紙に1年間勤めた後、徴兵され長崎の海軍軍需工場へ。そこで兵器の図面をひたすら引く生活を送った後、南方へ出兵。航海中、敵飛行機に狙われた少年兵を助けた際に左足を失ってしまいました。

上京、東宝へ
終戦後は傷痍軍人学校で家具の作成を学んだ後上京。たまたま東宝撮影所の近くに下宿していたため、撮影所に入り浸たり、ミニチュア作りのアルバイトをしていたところ、当時の美術課長に軍事工場時代に鍛えた製図の正確さと、家具職人として培った造型の腕を見込まれて東宝に入社。
「ゴジラ」「モスラ」など多くの作品に美術助手として関わったあと、「ゴジラ×ヘドラ」「日本沈没」「大空のサムライ」などの美術監督として手腕を発揮し、数多くの作品を世に送り出しました。現場での井上さんは、「いかに本物に見せるか」ということに大変こだわりを持っていたそうで、「日本沈没」クランクイン前には、事前に東京大学で地震を研究している教授に話を聞きに行くなど、非常に研究熱心だったそうです。
アメリカで再評価され
78歳のとき「ゴジラ×メガギラス G消滅作戦」に関わったのを最後に引退。その後、82歳のとき、ハリウッドで行われたゴジラ生誕50周年の企画で講演を行った際、その技術力に再び注目が集まり、「円谷監督を支えた特撮映画美術監督」として再評価されました。その後日本でも、平成23年12月に出版された、自身の一生と作品を表した著書「特撮映画美術監督 井上泰幸」が話題を呼び、再評価の動きが出だしたところでしたが、出版のわずか3か月後、心不全で息を引き取りました。平成24年7月から東京都現代美術館で開催された展覧会「館長 庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」でも、井上さんの特撮美術の技術の高さは、非常に高い評価を得ました。
「ゴジラ対ヘドラ」のスケッチを挟んで、姪の城野富美子(写真左)さんと東郷登代美(写真右)さん
▲「ゴジラ対ヘドラ」のスケッチを挟んで、姪の城野富美子(写真左)さんと東郷登代美(写真右)さん
素顔の井上さん
仕事では完璧主義者で「いつでも100%の力で取り組むので、終わった台本は見返したことがない」と言っていたという井上さん。ただ私生活ではとても情に厚く、家族や親類をとてもたいせつにされていたそうです。姪の東郷登代美さんは「自分にとっては、とてもやさしくて面白い叔父で、撮影所にも連れて行ってくれました。ただ自分の仕事場である特撮美術の現場だけは絶対に見せてくれませんでしたね。やはり自分の仕事場には小さい子どもとはいえ、入れたくなかったのかもしれませんね」と話していました。


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